対偶婚

気がある間だけ結婚しよう

さて、以上のように、モルガンは、「乱交」的な群れにはじまり、「血縁家族」から「・フナルァ家族」にいたる三つの発展段階をあとづけてきたが、
それらにつづく段階として、彼は、「対偶婚家族」という一つの家族の形態を考えた。
では、このむずかしい「対偶婚」という言葉によって、彼はどんな形態の結婚を言いあらわそうとしたのであろうか。
外観からみれぱ、それは一夫一婦制的な結婚といちじるしく似ている。一対の夫婦が、個別的に一つの家族をつくりあげているからである。
前の集団婚のばあいとはことなって、いまや、この形態の結婚のもとでは、夫は妻の生んだ子供にたいして、「ある程度の確信をもって自分の子であると考える。」ことができた。
しかも夫婦は、自分たち二人だけの性関係によって子供を産み、育てたということとと相まって夫婦としてのお互いの結びつきを強める事が出来たのだ。
”子は夫婦のカスガイ”--とは、まことによくいったものである。

しかし、この対偶婚家族は、一般には、独立した家屋に住んでいるのではなく、数個の家族が一棟の家屋(氏族の家)に共同に住みこんでいたのであって、
そして「そこでは、生活上の共産主義の原則が実行されていた」。というのは、
「家族が単独で生活上の困難にぶつかってゆくには、それはあまりにもか弱な組織だった」からだ。

出典:結婚相談所 比較

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女房の姉妹をも『妻』とよぶ

このツラン制の体系から集団婚の関係を、さらにくわしく分析してみると、
男たちが自分の女房の姉妹をも『妻』とよぷということがぷいだされるのだ。
しかも、その姉妹たちの夫たちは、めいめいたがいに『プナルァ』とよびあうのである。
プナルアとは、〃親密な友〃という意味である。亭主とおなじく『夫』とよぶのであって、
しかも、その兄弟のそれぞれの妻たちは、たがいに、さらにまた同様に、
女たちは自分の亭主の兄弟を、『プナルア』とよびあっているのである。

このように、数名の姉妹とその夫たちのプナルァ集団、また数名の兄弟とその妻たちのプナルア集団-という二つの対応せる関係が承いだされるわけであるが、
モルガンは、そのそれぞれにおいて「集団内で共同に通婚した」と考えたのである。そしてかように兄弟と姉妹との間の通婚はおこなわれないが、
兄弟たちないしは姉妹たちがそれぞれ、妻たちないしは夫たちを共有しているような集団婚のありかたを、モルガンは、
相聟(あいむこ) ないし相嫁(あいよめ) をよぶ名称のプナルアという言葉にちなんで、「ブナルア婚」となづけ、
その結婚関係のもとにある家族を「ブナルァ家族」と称したのであった。
ちなみに、兄弟と姉妹との間の結婚が禁ぜられたことは、モルガンによると、「外婚制」の萌芽であり、
この外婚制がはっきりとした社会の掟になったときに「氏族制度」が現われるのであると。

出典:出会いがない 社会人

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集団的な雑婚

このプナルア家族も、モルガンは親族名称の体系を分析することによって考えたものである。
すなわち、彼は、右にあげたマレー制体系とはことなる類別式親族名称の一体系を発見し、
これを「ツラン制体系」と称したのであるが、このツラン制体系がマレー制体系とことなる点は、
父方と母方の祖父母が親族名称のうえで区別され、父の姉妹ないし従姉妹は『母』とよばれずに『叔母』とよばれ、
母の兄弟ないし従兄弟は『父』といわれず『叔父』と称せられ、また自分が男のぱあい、
姉妹の子供は『子』ではなくて『甥姪』とよばれ、自分が女のぱあい、兄弟の子供は『子』とよばれずに
『甥姪』とよばれる-という点にあった。

さて、この体系のもとで、(マレー制体系とおなじく)、兄は弟の子供を、弟は兄の子供を、ひとしく『子』といい、
姉は妹の子供を、妹は姉の子供を、ひとしく『子』とよぶのであるが、(マレー制とちがって)、兄弟が姉妹の子供を、
また姉妹が兄弟の子供を、それぞれ『甥姪』とよんでいるという点が重要なのである。

モルガンはこの点から、兄弟たちとそのそれぞれの妻たちとの間には集団的な雑婚がいとなまれ、
姉妹たちとそのそれぞれの夫たちとの間にも集団婚がおこなわれていたと考えたが、
兄弟と姉妹との間の結婚がこの体系のもとでは禁ぜられていたと解したのである。
いいかえると、兄弟姉妹婚の禁制という徒(おきて) が生ずることによって、
親族名称の体系もマレー制よりツラン制へと変化したのであると。

出典:出会い系 サクラいない


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同世代の間での集団婚

原始人は結婚を知らず
ところで、血縁家族のもとでのこのような同世代の間での集団婚とは、
同じ世代の男女の間で無規律な性関係がくりひろげられていたことをさすのであって、
つまるところ、「かぎられた範囲のなかでの乱交を是認しているもの」にほかならなかった。
それゆえ、もしこのぱあい、ちがった世代の者との結婚を禁ずるという制限がとりのぞかれてしまうと、
一つの社会のすべての男女の間で、同様に無規律な性交-つまり「乱交」-の状態があらわれる。
そこでモルガンは、血縁家族の以前の段階には、同じ世代の者に結婚をかぎるという枠がなくて、
人々が世代にこだわりなく無差別に交わりあっていた完全な乱交の段階があったろうと想像した。
そして、このような完全な形での乱交の状態のもとにあっては、
人間は、「その周囲にむらがっているもの言わぬ動物とは、ほとんど区別することもできない」ような、
けだものにちかい生活をしていたろうと承なされた。

モルガンは、かように血縁家族の段階からさかのぼって乱交の段階を推定したが、
血縁家族につづく段階としては、彼は「プナルァ家族」なるものを考えたしたのである。
では、なに故に、ハワイ原住民のもとで、このような奇妙な親族名称の体系ができあがったのであろうか。
モルガンはこの問題についてつぎのように考えた。
すなわち、ある男からみて、その兄弟の子供をすべて『子』とよぶのは、兄弟の妻が兄弟それぞれの妻であると同時に、
また彼自身にとっても妻であったからにちがいない。
言いかえれば、兄弟たちがそれぞれの妻を共有にしていたからにほかならない。

出典:結婚相談所 選び方

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血縁家族

というのは、そのような兄弟間の妻の共有、つまり集団婚がおこなわれているところでは、
自分自身の子供と自分の兄弟の子供とを区別することはできなくなって、
それ故、いちように『子』とよぶよりいたしかたないからである。
兄弟の妻がうんだ子供は、その兄弟の子供であるかもしれないが、しかし自分自身の子供である可能性もあるわけだ。

同様に、従兄弟姉妹や再従兄弟姉妹たちの子供をも『子』とよぶのは、
その従兄弟姉妹や再従兄弟姉妹の間で集団的な結婚がおこなわれていたことを物語る。
したがって、モルガンは、同じ世代の親族の間に、集団婚がいとなまれていたので、
このような奇妙な親族名称の体系がうまれたのだと解釈したのである。

このように、モルガンは、生れた子供がどの男の子供だかわからないという結婚のありかた、(つまり、集団婚)に、
類別式の親族名称の体系の原因があると承たのであり、そして右のように五つの言葉によって
すべての親族が言いあらわされるというマレー制体系のもとでは、祖父母.父母・兄弟姉妹・子・孫の五つの各世代において、
それぞれ世代内部で集団婚がいとなまれ、すべての男たちはすべての女たちと共同に結婚していたのであると考えたのである。
ただ、五つの世代に親族名称が区別されていたのは、異なった世代の相互の間では結婚が禁ぜられていたからであるとみなされた。
そしてかように同じ世代の間で集団婚をいとなんでいた家族を.
モルガンは「血縁家族」と名づけ、人類の家族の最初の形態とみなしたのである。

出典:

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集団婚と兄弟姉妹婚

ところで、モルガンが発見したこの「類別式」の親族名称の慣習のうちでも、彼の注音心をとりわけつ
よくひきつけたのは、ハワイ群島のポリネシア人のもとで柔いだされた慣習で、彼はハワイの親族名称の型をとくに「マレー制体系」とよんだ。
ハワイの原住民のもとにあっては、すべての親族は、『祖父母』・『父母』。『兄弟姉妹』。
『子』ならびに『孫』の五つの類別式の親族名称のいずれかによって言いあらわされていたのである。
そしてこれらの語に男と女を示す接尾語をつけることによって、たとえば『祖父』と『祖母』が区別されていた。
ともかく、世代をしめす五つの語によって、あらゆる親族関係が言い表わされていたといっていいのである。

したがって、兄弟姉妹の承ならず、従兄弟姉妹や再従兄弟姉妹や再々従兄弟姉妹をもふくめた傍系の同世代の親族は、みないちように、『兄弟姉妹』の語でよばれるわけだ。
そしてこの『兄弟姉妹』の語でよばれる人々の子供、つまり自分にとり一世代下の親族は、すべて、自分の実の子供とおなじく『子』とよばれるのだ。
だから、甥や姪も『子』と称せられるのである。同様に彼らの子供、すなわち自分の二世代下の親族は、すべて『孫』と称せられ、
また、自分が『兄弟姉妹』とよぶ同世代の者たちの父母や祖父母は、みなそれぞれ『父母』、『祖父母』という語でよびかけられるのである。

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シンディとチャーリーの場合

パートタイマーのシンディは、夫がいつも仕事を家に持って帰るので、自分がないがしろにされていると思っています。仕事と家族のどちらを大事に考えるかという問題で、この夫婦の考えは分かれています。何を優先するかという価値観がちがうのです。

「夫のチャーリーはよく働いてくれるので感謝しているんですけど、少しフェアじゃないと思うの。
とにかく、いつも仕事を家に持って帰るんですよ。私より仕事の方が大事だと思っているんでしょうね。といっても、夫は、そんなことないって言うに決まってますけど」
シンディは夫についてこんなふうに不満を述べ始めました。パートタイマーの事務の仕事に出ながら、主婦としての務めを果たしているシンディにとって、夫が仕事の忙しさにかまけて、自分がないがしろにされているのが不満なのです。
チャーリーはよく働き、よく稼ぐのですが、夫婦生活は二の次となってしまったようです。仕事と家族のどちらを大事に考えるかという問題でこの夫婦の考えは分かれているのですが、それは、何を優先するかという価値観のちがいがその根底にあるからです。たとえば、夫が仕事に心を奪われてい るのは、主婦としてのシンディの役割を軽視している証拠であると彼女は考えているわけです。その一方、チャーリーは、妻が自分の仕事のことをよく理解していないことを不満に感じているのです。
チャーリーは、シンディを伴ってカウンセリングのセッションに二回やってきましたが、彼の仕事が二人の関係に悪い影響を与えていると考えていないと主張するのです。シンディは、もちろん影響されていると主張します。こうしてセッションにおいて、二人は口論を長々とつづけたのです。シンディは愛の関係は親しみ合う経験なくしては維持できないと主張します。チャーリーは、経済的に安定することが先決だと主張するのです。こういった夫婦間の葛藤は決して珍しくありません。多くの夫婦が抱えている問題です。だからといって、解決しないで放っておいてよい問題ではありません。
ところが、チャーリーには、問題の認識が欠けているために、妥協ができないのです。

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普通の結婚

「クロワッサン症候群」の女性とほぼ同年代でありながらフツーの結婚をしている私だって、「理想としていた結婚生活って、こんなんじゃない筈だ」という気にはしょっちゅうなる。しかし弓ダム』や「ミセス」や「婦人画報」に対して、あんたのところで奏でた結婚生活賛美の歌は、私の現在地からはかけ離れたとこでしか聞けない有線じゃないの、どうしてくれるのよなんて、ねじこむ気になれない。

さて、第一章には「女性誌の影響力」というタイトルがついており、当時の『クロワッサン』が、今までの女性誌にあきたりない女たちにとって、どんなに新鮮に映ったかが書かれている。
そして著者松原氏が「クロワッサン御用達文化人」と名付けた桐島洋子、犬養智子、澤地久枝、向田邦子氏たちにそのライフスタイルを語らせ、女たちに「新しいステキな女」とはどういう生き方をしている人のこ
とをいうのかを、具象化してみせた。御用達文化人たちは若くなかったし美しくもなかった。そしてぶんな何らかのキャリアを持ち、独身だったり離婚していたりで、「普通の結婚」をしている人はいなかった。女たちはそういった御用達文化人を「生き方モデル」として視覚的に提示されることによって、こういう生き方をするのが「いい女」になる道なのだと信じたのだという。

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少女心

少女心は早く卒業した方がいい
そうした女性を相手にする男性は、とても迷惑します。ファンみたいにして近づいてきた女性だから、「きっと俺のことが好きなんだろう」と彼は思います。
そして、「だったら、デートして手でも握ってみるか」と考える。実際にそうしようとしたら、その女性に「わたし、そんなつもりじゃありません」と言われる。
こうなると、男性には何がなんだかわからなくなる。タレントでもない一般人の自分のファンだという女性の心理が、理解できません。次にそういう女性が現れたら、避けるのは当然でしょう。
つまり、そんなことをしていたら、いつまでたっても、モテ女にはなれません。
「恋愛するからモテる」という法則を、完全に無視しているのですから。
このケースは、女心がわかる.わからないの問題とは別のこと。あこがれとかファン心理とかは、女心ではなく少女心です。

未熟な女性の相手をさせられる男ってかわいそう!
あなたもそう思いませんか?

美人だからモテるのではありません。
たしかに美人のところには、男が寄ってくるでしょう。でも、その女性に男性を惹きつける魅力がなければ、1度デートして終わりです。目の力ばかりでなく、優しさも大切な条件です。

「ただ見ているだけでいい」では、一方的に好きなだけで、芸能人を好きになるのと同じです。相手との間には何の関係もできません。関係がないからあんなに熱狂できるのです。
相手が芸能人でなくても、ファンのような立場を取ろうとする心理が、僕にはよくわかりません。

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結婚願望の強い女

まるで世の中の三十代の女には、平凡だが堅実な結婚の道を選んだお利口さんと、メディアに振りまわされて今だに独身でいる、結婚願望の強い女しかいないかのようだ。
ちょっと安易な発想すぎやしないだろうか。
また、著者の、マイナス面のみをあげつらう減点法的な発想も納得できない。
失ったものだけを数えるより、得たものを数えてみることを何故しないのか。
一見幸福そうな結婚生活を送っているかのように見える専業主婦だって、マイナス面だけをあげていけばキリがない。

おそらく、相手と関係ができるのがこわいから、そうするのでしょう。もちろん、相手を惹きつけるつもりなどまったくありません。
むしろ、自分から遠くにいてほしいのです。それでいて、相手と恋愛関係になるという夢は見ます。これでは、本当はどうしたいのかが、わかりにくい。
相手と関係を持ちたいのか、持ちたくないのか、そこのところが非常にあいまいです。これではモテ女にはなれません。
なんとなく好き、というだけで。相手に近づきたい。でも、こわい。

相手に関していろいろと知りたいことがあっても、ぜんぶうわくのことで本当のところは知りたくない。そこまで知りたいとは思わない。
よく言われる、自分は傷つきたくないというやつです。知れば知るほど、嫌なところも知ってしまうからです。相手のいいところだけを見ていたい。
そんな女性がモテるわけがありません。あなただってそう思うでしょう?だって、あまりにも自分勝手だから。

出典:

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